日本語へのやつあたり 「気どられる」はなぜ「けどられる」とよむのか
原田ひ香の『アイビー・ハウス』をよんでいたら、
「けどられる」ということばがでてきた。
「けどられる」?
わたしはこれまで「気どられる」を
ずっとまちがって「きどられる」と
よんできたことにはじめて気づいた。
これだから漢字はいやなのだ。
ほかのひとも「けどられる」と ひらがなでかいてくれたら
「きどられる」なんてよんで、恥をかかずにすむ。
なんで「気どる」は「きどる」なのに、
「気どられる」では「気」を「け」とよむのか。
「口説く」も、
わたしは「くちとく」と平気でよんでいたし
(ひとまえで「くちとく」といって
はずかしいおもいをした)。
さらにいえば、山羊(ヤギ)を「やまひつじ」と
どうどうと発言したこともある。
みんな、はじめからひらがなでかいてあれば
こんなかんちがいはなかった。
「気どられる」とかいて
「けどられる」とよむんですよ、と
語彙力検定みたいに知識をひけらかすよりも、
はじめから「けどられる」とかけば
小学生にも外国人にも、そしてわたしにも、
ずっとわかりやすい。
わたしは「けどられる」とただしくよめなかったことを
はじるのではなく、
日本語の改革こそをいそがなければ、とおもった。
漢字に何種類ものよみかたをみとめず、ひとつにしぼる。
活用のある語は、はじめからひらがなでかく。
「気どられる」は、はじめから「けどられる」とかくこと。
わかりましたか?
(吉田 淳)